凪(なぎ)を求めて

居宅で介護サービスを受けている要介護者の家族によるブログ

介護における「利用者のため」という言葉の偽善性

私はこれまで、介護業者による理不尽をいくつか目の当たりにしてきた。

そのいずれにおいても、何かにつけて「それが利用者のためなのだから」という言い訳が、時には暗に、時にはハッキリと、水戸黄門の印籠のように使われてきたのだが、それは何のことはない、利用者本位という体裁をとりながら、その実、業者自身のいいように利用者とその家族を動かすための言葉にすぎないのだ。
結局のところ、介護は商売なので、業者はウマミの大きなところには飛びつくし、逆にウマミの少ないところは避けたがるのだが、いつもそれらを正当化するのに使われるのが「利用者のため」という魔法の言葉なわけだ。

「利用者のため」「利用者のため」と簡単に言うけれど、介護業界というきわめて視野の狭い閉鎖的な社会では、最終的に何が利用者の利益かを決めるのは、ケアマネであるかのような通念がまかり通っている。介護のことは業者自身が一番よくわかっているかのように業者は思っている。
しかしそれは大間違いである。
何十年という単位で生活を共にしてきている我々家族以上に、たかだかほんのちょっと関わっただけの介護の連中に、何がわかるというのか?
我が家の介護のことは我が家が決める。こんな当たり前のことを、介護の連中はさせないつもりなのか。

思い上がりもいい加減にしろと、全ての介護事業者に言いたい。

なぜケアマネは、自分の思い通りにならないと気が済まないのか

基本的にケアマネージャーというのは、全て自分の思い通りに事が運ばないと気が済まない、と思っていて間違いないように思う。

しかし本来これはおかしな話で、いったい誰のための介護なのだろうか。ケアマネや事業所が満足するための介護では困るのだ。

現状、要介護者とその家族は、介護サイド、とりわけケアマネに、人生の命運を握られているといっても過言ではないように思う。

より納得のいく生活を送るためには、われわれ家族が必死に考え、立ち回らなければならない。

訪問介護サービスを受け入れるという苦悩

世の中、好きこのんで介護を受けたい人など、誰もいないだろう。誰もが自分自身で食事やトイレや入浴をやりたいと願うはずだ。

しかし不幸にして、いわゆる要介護状態になってしまった時、世の中の多くの家庭では、介護サービスを受け入れざるを得なくなる。とくに訪問介護を受けるという場合、それまでの長年の家庭生活の中に、介護業者の人々が毎日入れ替わり立ち代わりやってくる、ということになる。

昨今、介護ヘルパーによる窃盗事件などが時たま報道されることがある。彼女たちの多くは善意で働いていると思いたいが、しかしその資格習得までのハードルは比較的低いとも聞く。言い方は悪いが、どこの馬の骨とも知れない人でも、人手不足の介護業界にあっては、ヘルパーになれるようである。今後さらにその傾向は進むだろう。

家の隅から隅まで、どこの馬の骨とも知れない人々に立ち入らせ、公開せねばならないという精神的負担は、おそらく介護事業者側の人々には想像がつかないのだろうと思う。

かといってそれを断ってしまっては、要介護者の日常生活が成立しないのも事実。信頼関係などとうてい無いまま、我々利用者側は日々、介護サービスを受け入れざるを得ないのである。

それは率直に言って「生活が踏みにじられる」という表現が最も実感に近い。

介護保険のカラクリ (別冊宝島 2348)

書店で「介護保険のカラクリ (別冊宝島 2348)」というムック本を見かけた。

介護保険のカラクリ (別冊宝島 2348)

介護保険のカラクリ (別冊宝島 2348)

 

 ざっと立ち読みした感じ、介護とその現状について、まだ介護を受けたことのない利用者とその家族が、事前情報として知識を仕入れるには、まずまず悪くない本だと思った。 すでに介護を受けている者にとっては、それほど目新しい情報はないかもしれないが、現状の整理くらいにはなるかもしれない。

介護に関して、ウェブで得られる情報というのは、どういうわけか介護事業者視点・ケアマネ視点のものばかりで、介護ユーザー視点から見て役に立つ情報というのは、今のところ紙媒体に比較的多いように思う。このムックも、ユーザー視点で書かれていた。

なぜ玄関ドアを無断で開けようとする介護関係者が多いのか

普通、他人の家を訪れる来客者というものは、まず玄関のインターフォンを鳴らして、その場で待機する。それを受けて、家の者がインターフォンを通じて来訪者が誰なのか確認し、家の者がドアを開けて応対する。
これがごくごく一般的な、普通の流れだと思うのだが、困ったことに介護の人達には、こうした常識が通用しないことがたびたびある。

というのも、訪問介護などの居宅系介護サービス事業者の中には、インターフォンを押す前に自らドアを開けようとする者(施錠されてるので開きません)、インターフォンで名前を名乗った直後に自らドアを開けようとする者(だから施錠されてるっつうの)が、少なからず見受けられるのである。
なぜ介護関係者は、家の者がドアを開けるのを待つことが出来ないのだろうか?

とくに特定の事業所に偏ってそういう人が存在しているわけではなく、わりとどこの事業所にもそういう人がチラホラいるので、それが介護の世界では半ば当たり前のことになってしまっているのだろうか。
おそらく日中独居の寝たきり利用者の家を訪問する機会が多いという事情が背景にあるのだろうとは思うが、それにしてもギョッとさせられる。

これは「介護の常識は世間の非常識」の一例だと思う。

地域包括と介護事業所との癒着

【介護「囲い込み」是正へ】接待、金品…業者が地域包括支援センターに攻勢 要介護の高齢者紹介目当て : 47トピックス - 47NEWS(よんななニュース)

一部のセンターでは囲い込みだけでなく、職員が外部の介護事業者から飲食の接待や金品の贈り物を受け、見返りに優先的に高齢者を紹介していることが複数の関係者の証言で分かった。利用者の状況に合っていない事業者が選ばれたり、過剰な介護サービスが提供されたりする恐れがある。

 地域包括とその地域の事業所(のケアマネ)がいかに癒着しているかという話だが、これはおそらく当事者たちは「で、それの何が悪いの?」くらいにしか思っていないんだろうなあと思う。
わが地元をふりかえってみても、地域包括職員と各事業所のケアマネとが懇親会のようなものを開いていて、とうていそこに緊張感のある関係があるとは思えない。

いくら「利用者本位」と建前を叫んでみても、そもそも利用者側は、地域の複数の事業所に関する詳しい情報なんてものを持っているわけがないから、利用者が率先して事業所を選ぶことなど無理な話。どうしたって多かれ少なかれ「お手盛り介護」になってしまうのだ。

ちなみにこのブログでは過去に、介護職どうしのつながりは非常に密だが、それに比べると介護者家族は非常に孤立している、という点を何度か指摘してきたので、あわせてお読み頂きたい。


なぜ介護者向けの掲示板やSNSが少ないのか - 凪(なぎ)を求めて


団結する介護事業者・孤立する介護利用者 - 凪(なぎ)を求めて

介護のことを他人に話しづらい風潮

介護のことを他人に話しづらい風潮が、世の中には強くある気がする。その根本には「厄介ごとを自分の周りからなるべく遠ざけたい」という意識がある気がする。もっとはっきり言えば、そこには「介護を抱えている家庭とは関わりたくない」という差別的意識が根底にあると思う。このままでいいのか。いいわけがない。せめて普通に話したいと思う。

団結する介護事業者・孤立する介護利用者

介護事業者というのは、複数の事業者にまたがったケアプランを実行することが多いからなのか、包括が取りまとめているからなのか、同じ地域の業者どうしの横のつながりが、医療機関などに比べて非常に強いように思う。

それには良い面もあるのだろうが、われわれ利用者側の目から見ると、それが事業者本位の体質を生み出す一因にもなっているように見える。

利用者側が何か不満を持ったとしても、相手が組織で、しかも複数の組織が地域ぐるみで団結されていては、力関係としてどちらが強いかは言うまでもない。

事業者どうしは強いつながりで結ばれているが、それに比べて利用者側は孤立しがちなのが、地域社会における介護の現状ではないだろうか。

クレーム対応の仕方でその介護事業所の誠実さがわかる

信頼のできる事業所は、クレームに発展する前に、不満の芽を摘もうと率先して動く。何かあれば、こちらが文句を言う前に先に謝ってくる。どう処理するかも提示してくる。トラブル時の対応について契約書や重要事項説明書に細かく明示してある。

信頼できない事業所は、従業員がクレームの種になりそうなことを隠そうとする。実際に何かあると、ナアナアで済ませようとする。クレームを入れても、何が不満であるのか理解しようとしない。契約書や重要事項説明書にトラブル時の対応についての記述が具体的に書かれていない。

「嫌ならケアマネを変えろ」という言い回しが免罪符になっていないか?

利用者側からみて「困ったちゃん」なケアマネについて、ネット上で相談が書き込まれると、たいていの場合「嫌ならケアマネを変えればいい」というレスがつく。
もちろん善意でそのように教えてくれる人も多いのだろうが、特に同業者からのレスの場合、一種の開き直りに見える場合がある。
「嫌ならケアマネを変えればいい」という言い回しは、利用者側に責任をすべて押し付けるための、介護業界にとっての免罪符になっていないだろうか。

そもそも利用者側は、本当にケアマネ(の所属する居宅介護支援事業所)を自由に選べる環境にあるといえるだろうか?
どこにどんな名前の事業所があって、何人くらいケアマネが所属しているかくらいは、行政が公表しているデータを見れば把握できるけれど、逆に言うと利用者側にはたったそれだけしか情報が事前に与えられていないのである。
今時、街の診療所でさえ、ホームページを開くなどして積極的に広告を打つ時代である。まだ医療のほうが、どんな医者が地域にあるのか、把握しやすいのではなかろうか。それに比べると、介護はじつに立ち遅れていると言わざるを得ない。