将来、介護など受けたくない!
介護サービスを受ける要介護者の家族として、つくづく思うのは、「将来、介護など受けたくない!」ということである。
介護を受けるというのは、その性質上、本人および家族のプライベートに、見ず知らずの他人がものすごく深く関わる、ということに他ならない。本来は相当にデリケートな問題であり、高度なきめ細かさや配慮が必要な領域だと思う。
しかし現実には、無神経な介護職、一般常識に欠ける介護職、上から目線の介護職、というのは決して珍しくない。そうした人々にプライベートとプライバシーをいやおうなく握られるのが介護なのである。
介護を受けたくないと主張する老人に対して、介護業界はすぐさま「困難事例」という業者目線のレッテルを貼ろうとするが、そうしたレッテル張りが横行しているという事実そのものが、介護における「当事者不在」を象徴していると思う。
他人に対して偉ぶりたがる人物抜きの介護に恵まれたい
介護職の人物像というのは
・他人に対して偉ぶりたがる高圧的な人
・ごく普通の常識的な人
の二通りに極端に分かれる傾向があって、往々にして前者がトラブルの種となる。いつもイライラしていてネット上で顧客に対する文句ばかり書いているような介護職は前者に当てはまる。願わくば極力関わり合いになりたくない手合いである。
後者ばかりで構成された介護の現場というのは、利用者的にも非常にラクであるし、おそらく現場に入っている同業者にとってもラクであろうと思う。たまたまそうした人材に恵まれて毎週のケアプランが回るような状況になったら、利用者側としてもそれを手放さないように努めるのが、精神的にラクな介護をする秘訣ではないかと思う。
しかし利用者側の意思が時に置いてきぼりにされるのが介護の理不尽なところで、そうした安定的状況を不本意ながら手放さざるを得ない羽目になることがある。そのような時はまさに逆境であり、ストレスが最大限に高まる局面である。
介護という名のシャドウ・ワーク
現在「高齢者虐待防止法」という法律があり、介護放棄は「虐待」と定められている。介護放棄とみなされれば、地域包括支援センターによる立ち入り調査などが行われることもあるという。言い方には語弊があるかもしれないが、介護というものは事実上、介護者にとって「法律で定められた義務」のようなものになっている。
その一方、家庭の介護者は社会でどう評価されているかというと、たとえ介護のために仕事に就けなかったり、退職を余儀なくされたとしても、介護が労働に準ずるものとして評価されることはまずない。ただの無業者・専業主婦・家事手伝い等として扱われてしまうのである。介護はシャドウ・ワークになってしまっているのだ。
また、その苦労を他人に話しても、経験上、軽く流されてしまうことが多い。場合によっては、「うちのほうがずっと大変だった」(≒お宅はたいしたことない)と、不毛な不幸自慢合戦になってしまうことも珍しくない。
家庭の介護者に重い義務を課すからには、それに見合った社会的評価やインセンティブが与えられるべきではないだろうか。たとえば、介護度に応じた報奨金が払われたり、税制で優遇されたり、再就職の際に有利に扱われたり等。現状ではあまりにも「損な役回り」にすぎないから、介護から逃げたがる親族が後を絶たないのだ。
介護とジェンダー
「介護は女の職場」とばかりに、介護業界には圧倒的に女性の就労者が多い。福祉用具担当など、男性のほうが多い職種もあるが、やはり全体的に見れば女性が圧倒している。
世の中の多くは男社会であるから、そういう業界があってもいいのかもしれない。
ただ、男であれ女であれ、特定の性別が多すぎる集団というのは、とかく風通しが悪く陰湿になりやすいのも事実ではないかと思う。
たまに介護職の愚痴として、女社会ゆえの人間関係の苦悩をネット上で目にすることがあるが、問題はそのしわよせが利用者側に降りかかってきた時で、そうなると我々も「対岸の火事」とは言っていられなくなってしまうのだ。
また家庭において、女性は本人の意志にかかわらず暗黙のうちに介護者とみなされやすく、逆に男性はたとえ介護に携わっていても介護者とみなされにくい、という状況がある。「介護=女のやること」というジェンダーバイアスは、様々なところにあるようだ。
介護職よ、はき違えたプロ意識は捨てるべし
介護職のなかでも、特にやっかいなのが、要介護者本人の言うことにも家族の言うことにも、しまいには自分の事業所の人間の言うことにも耳を貸さない輩だ。
プロのやることが信用できないのか、素人は口を出すな、とばかりに家族を邪魔者扱いし、すべてにおいて意固地に自分のやり方を押し通そうとするのだが、そういう輩に限って、仕事の質は他の人より劣るのである。
そういう間違ったプロ意識は有害無益なので、心当たりのある介護関係者は今すぐ捨ててほしい。商売としての介護というのはサービス業であるという意識を持ってほしい。
介護の連中に関わるようになってから、何かにつけて「私はプロなんだ、プロなんだ」と自己主張する手合いを信用してはならない、ということを私は学んだ。そういう輩は自分の仕事の質や知識に自信がないから、その裏返しとしてそう口走るのである。
コントロールしづらい「困難ヘルパー」
- 無駄に気が強い
- 人の言うことを聞かない
- 自分流のやり方にこだわりが強すぎて柔軟性がない
- ベテランであることを極度にアピールしたがる
典型的にはこんな特徴の人物が、扱いに困るケースが多い。
若手にもオバヘルにも居るけど、まだ若手のほうがクレームを入れた後の改善度合いは良いかな、という印象。
ベテラン風を吹かせたがるのは、どうしてもオバヘルに多いが、柔軟性を同時に持ち合わせている人も多く、円滑に進む場合も少なくない。しかし頑固な性格の人だと厄介。
扱いに困るというほどではないが、色々やりづらいのは、社会常識が妙に欠落している人。介護業界は人手不足ゆえに、誰でもかれでも採用してしまうのか、そういう人も時折入ってくるのだが、結果、家族のわれわれが教育を担わざるを得なくなってしまうのだ。「頼むから事業所側で教育して!」と叫びたくなる。
介護保険制度の本質は「『措置』の民営化」だ
行政による措置制度だった頃の介護サービスは、厚生労働省の文書によれば「行政窓口に申請し、市町村がサービスを決定」するもので、自治体によって措置として行われていたようだ。
いっぽう、現在の介護保険制度は「措置から契約へ」といわれ、同文書によれば「利用者が自らサービスの種類や事業者を選んで利用」できるようになったそうである。
出典:厚生労働省「公的介護保険制度の現状と今後の役割」
引用画像出典:介護情報サービスかながわ 介護保険制度創設の背景
しかし、現在介護保険を利用して介護サービスを受けている利用者やその家族が、この説明を聞いて「うんそうだね、確かにその通りだ」と納得できるだろうか? 私には到底できない。
確かに形式的には契約書が存在し「利用者が自らサービスの種類や事業者を選んで利用」していることになっているものの、現実には、利用者ではなくケアマネージャーによってサービス内容が選択・決定され、それも往々にして事業所側の都合を色濃く反映した内容を、事実上選択の余地があまり無いような形で「契約」させられている、というのが実態ではないだろうか?
つまるところ、サービス内容を決める「措置」の決定権者が、行政から民間のケアマネに移行しただけ、というのが介護保険制度の実態で、つまり現在の介護保険制度の本質は「『措置』の民営化」といわざるをえないのではないかと思う。
そのように考えれば、なぜケアマネがあれほど中央集権的に介護のすべての権限を事実上握っているのか、なぜケアマネの傲慢な振る舞いがたびたび利用者側の悩みの種として話題にのぼるのか、なぜ契約書の扱われ方が一般企業に比べて粗雑であることが多いのか、すべて説明がつく。彼女ら・彼らは無意識に「措置」のノリでケアマネジメントに関わっているからなのだろう。
要介護状態という人生の後期ステージのあり方を、赤の他人であるケアマネに左右されるというこの屈辱を、世の介護職の人々はどれだけ理解しているのだろうか?
介護を本当に利用者の自由契約に基づくものにするためには、やはり措置制度の残滓としてのケアマネの存在自体を抜本的に見直す必要があるのではないだろうか。
やればやるほど報われない
要介護者本人のために、この家のために、自分たち自身のために、私が尽力しようとすればするほど、事業者側との摩擦が起こる。医療側と介護側の足並みの不揃いが起こる。すべてが裏目に出る。関われば関わるほど不幸になる。こんな介護制度に誰がした。
ケアマネ不要論に反対しているのはケアマネばかり
ネットでケアマネ不要論について検索してみると、そうした議論の概要や経緯よりも前に、介護関係者(とりわけ介護職出身のケアマネたち)が、蜂の巣をつつかれたような大騒ぎをしているのがわかる。
まあそりゃそうだろう。せっかく只のヘルパーから、なんだか偉い人扱いされるような立場になって、しかも給料も増えたのである。その立場を意地でも手放したくないのだろう。自分達の損得しか考えない、独善的でエゴむきだしの声しか聞こえてこない。悲しい限りである。
ケアマネ不要論に関して、要介護者の家族、すなわち介護者としての私の今の意見を書いておくことにする。
私は、現在のケアマネに相当する仕事のうち、業者の紹介斡旋は、かかりつけ医が行うようにするのが理想だと思う。人の「いのち」を全面的・包括的に預かって陣頭指揮をとる資格があるのは、医師のみであると思うからだ。同時に、介護保険の給付管理まわりは、医療保険と同様あるいは一体化したシステムにして、ケアマネが管理する必要をなくせばいいと思う。さらに相談業務や介護度認定は、地域包括の増員などで対応すればいいのではなかろうか。
あくまでも医療の一部として介護を位置づけ直すのが理想だと思う。