凪(なぎ)を求めて

居宅で介護サービスを受けている要介護者の家族によるブログ

介護保険制度の本質は「『措置』の民営化」だ

行政による措置制度だった頃の介護サービスは、厚生労働省の文書によれば「行政窓口に申請し、市町村がサービスを決定」するもので、自治体によって措置として行われていたようだ。
いっぽう、現在の介護保険制度は「措置から契約へ」といわれ、同文書によれば「利用者が自らサービスの種類や事業者を選んで利用」できるようになったそうである。

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出典:厚生労働省「公的介護保険制度の現状と今後の役割」
引用画像出典:介護情報サービスかながわ 介護保険制度創設の背景

しかし、現在介護保険を利用して介護サービスを受けている利用者やその家族が、この説明を聞いて「うんそうだね、確かにその通りだ」と納得できるだろうか? 私には到底できない。

確かに形式的には契約書が存在し「利用者が自らサービスの種類や事業者を選んで利用」していることになっているものの、現実には、利用者ではなくケアマネージャーによってサービス内容が選択・決定され、それも往々にして事業所側の都合を色濃く反映した内容を、事実上選択の余地があまり無いような形で「契約」させられている、というのが実態ではないだろうか?

つまるところ、サービス内容を決める「措置」の決定権者が、行政から民間のケアマネに移行しただけ、というのが介護保険制度の実態で、つまり現在の介護保険制度の本質は「『措置』の民営化」といわざるをえないのではないかと思う。
そのように考えれば、なぜケアマネがあれほど中央集権的に介護のすべての権限を事実上握っているのか、なぜケアマネの傲慢な振る舞いがたびたび利用者側の悩みの種として話題にのぼるのか、なぜ契約書の扱われ方が一般企業に比べて粗雑であることが多いのか、すべて説明がつく。彼女ら・彼らは無意識に「措置」のノリでケアマネジメントに関わっているからなのだろう。

要介護状態という人生の後期ステージのあり方を、赤の他人であるケアマネに左右されるというこの屈辱を、世の介護職の人々はどれだけ理解しているのだろうか?
介護を本当に利用者の自由契約に基づくものにするためには、やはり措置制度の残滓としてのケアマネの存在自体を抜本的に見直す必要があるのではないだろうか。